向田邦子さんのエッセイ集。
向田邦子さんという名前は知りながらも、なかなか読む機会に巡り会えずにいました。
ただ単に、推理小説とかが好きなせいもあって、エッセイというのを手にしてこなかったからなのだが。
たまたまテレビ番組で向田邦子さんの「眼があう」の一節を紹介していたのを見て、とても感慨深く、感動しました。
すぐに読みたい衝動に駆られ、急いで書店で購入。
さらに、NHK日曜美術館という番組で爆笑問題の太田光さんが、向田邦子さんの遺品の一つとしての湯呑みを向田邦子さんの妹さんよりいただいたというエピソードを話されているのをたまたま見た。
きっかけはシンプルで、こうやって不思議とつながってやってくるのだろうか。
勝手にこれも何かの縁だと一方的に思ってたりします。
さて、前置きはこの辺でおしまい。
太田光さんが出演されていたテレビで紹介していたのは、この一節。
”ものは値段など知らないほうがいいと思えてくる。他人様に誇れる名品を持たない人間の言い草かもしれないが、詠み人知らず、値段知らず、ただ自分が好きかどうか、それが身のまわりにあることで、毎日がたのしいかどうか、本当はそれでいいのだなあと思えてくる。
あまり知りすぎず、高のぞみせず、三度の食事と仕事のあい間にたのしむ煎茶、番茶、そして、台所で立ったまま点(た)てるお薄。このときをいい気分にさせてくれれば、それでいい。”
引用:「眼があう」P.202
肩肘張らずに、ただ自分が気に入った物に囲まれて暮らしていく。
あまり値が張るものは、使うときに気持ちが萎縮してしまうようで思いっきりつかえない。
万が一割ってしまったらとか、壊してしまったらとか考えてしまい、気が気でない。
身の丈以上のものを手にすると、そういう気持ちになってしまう。
自分の日常くらい、もっと気楽に過ごせたらいいのだが。
私が持っているウイスキーも同じ。
そんなに高いものを持っているわけでもないのだが、もう樽がないから飲むのは勿体ないとか、1万円したウイスキー(私には高級品!)なんだから、今は飲まずに何かの記念のときに飲もうとか、自分なりに言い訳をして日常的に飲むのをためらってしまう。
つまり、貧乏性なのだ。
1万円のウイスキーよりももっと高いものは、たくさんある。
自分の身の丈に合わず、訳の分からない勢いで買ってしまい、結局飲むのをためらって飾ってある。
反対に、お財布事情に見合った比較的手頃なものは、がんがん飲んでる。
今も、お手頃なウイスキーが注がれたグラスが目の前にある。
人間、いつ死ぬかわからない。
病気にでもなってしまい、飲んだらダメ!と、いつドクターストップがかかるかもしれない。
どうせあの世には持っていけないのだから、「あー、飲んでおけばよかった」と
後悔しないためにも飲んでおいたほうがいい。
それは、分かっている。
でも、わたしの貧乏性は、なかなかしつこいようで、一向に変わらない。
いつか変わる日が来るのだろうかと、半ばあきらめ気味でいる。
今は何でも安く手に入る時代。
100円ショップに行けば生活に困らないくらいの、たいがいのものが売っている。
これはすごい企業努力だと思う。
ただ、どうしても扱いが雑になりがち。
失くしても対して悔やまない。
失くしても、使う時に少し不便と思う程度で、また買えばいいって思ってしまう。
だから、いつの間にか、何かを使って代用することを忘れてしまう。
工夫しなくなりがちになる。
そうやって、その場しのぎの物が身のまわりにどんどん増えていく。
自分のまわりにあるものは気に入ったものだけ。
それらに囲まれ、見ているだけでもワクワクする。
そういう生活空間で過ごしていきたい。
どうすれば、それに近づけるのか。
ものの価値を、自分がもっているときの気持ちで判断する。
ぶら下がっている値札に左右されず、自分に問いかける。
「ワクワクするの?しないの?」
ワクワクするなら生活が、心が豊かになる。
それなら少々高くても買ったらいいんじゃないか。
勢いで買ってしまったウイスキーなんて、見てるだけでもワクワクするのだから、余計なことを考えず飲んだらいい。
いつか、こういう境地で暮らすことができるのだろうか。
そんなことを考えながら、いまだに棚に鎮座する未開封のウイスキーを見ている自分がいる。
ウイスキーに関しては、まだまだたどり着けそうにはない。